one small touch

one small touch。日々の思考や行動に一手間加えることで、素敵な女性にね。私はなりたいです。

平成最後の夏という言葉が嫌いという話。

平成最後の夏になんて興味はない。

 

平等に夏は毎年巡ってくるし、小休止を挟みたくても誰も待ってはくれない。
早すぎて少し止まってくれと思うのに少しも止まろうとしない時の流れはある意味脅威だ。
水の流れは大きな力でせき止めることはできるし、強い風や日差しは建物の中に入ると逃れることはできる。それなのに時の流れだけは目を瞑ってみても、現実逃避に眠り倒しても、旅に出ても、どうやっても止まってくれない。抗おうとしたとしても、自分だけを置き去りにしてすごいスピードで進んで行く。困る。すごく困るし、戸惑う。

 

だから夏自体は好きだけれど、毎年やってくる夏に特に大きな意味を作ること自体に大きなクエスチョンマークを被せていたし、必要以上になんでも誰も彼も関係のあるイベントにしたがる日本人の悪い癖だと思っていた。イベントの多さは全く問題ではないが、その全体数全て分をぶつけてくることは勘弁してほしい。

 

大体そう思って騒いでいた人間こそ今目の前に現れた秋を喜んでいる、平成最後の夏のことなんて忘れている、下手したら私の方が平成最後の夏のことを真剣に考えていたのではないかと思う。


いつだって流れる時間の濃さは同じだ。違いが出るのはそれを受け取る側の問題であって、流れゆく時間や四季には何も変わりはない。

そう思ってずっといたけれど、もしかすると時の流れは平等だと思い込んでいただけで、もしかしてもしかすると、そうではないのかもしれないとさっきふと思った。

 

さっきまでお気に入りのカフェで一人でこの文章を書いていたけれど、
右隣はおそらく35歳独身女子3人のグループ、彼女たちは自分にたくさんの時間を使っているだろうし、バリバリ仕事をしているだろうし、やってきたケーキの写真を延々と撮りお互いの動画を撮りそれを投稿し、やっとケーキを気だるそうに食べ始めた。今の話題はこの歳になってyoutubeチャンネルを持ったらチャンネル名は何にして何を配信すべきかといった話をしている(おばチャンネルにするそうだけれど)。女は本当に仲が良いと話すことは時に何の意味もないくだらないことになる。くだらないことを延々と話せる関係は、実はとても価値ある時間を創り出すようにに見える。

 

左隣は60歳を超えているであろう、夫婦かどうかは分からないようなカジュアルな男女のペア、会話はあまりないが微笑みあいながら、たまに心底そう思っているであろう一言一言を交換している。入ってきてすぐ、お食事ですか?という問いかけに「ビールがいいわよね」と笑い合いながら幸せな空気を発している。「店員さん、このお店好きそうね」「良い音だね、スピーカーはどこだろう?」「次はオリーブが食べたい」そういう飾らない気持ちを交換し合う何とも落ち着いた穏やかな時間を生み出すように見える。

 

あくまでも「そのように見える」、そう見えるけれど、本当はみんなの世界に何が起きているかなんて微塵も分からない。私はもちろんそうだし、向かい合っているみんなであっても分からないはずで、でもそれを少しでも分かりたいから会話をする、伝える、受け取る、傷つく、喜ぶ、泣く、笑う。
そうしたことを繰り返してお互いの関係を少しずつ形作りながら不器用に生きる。

 

そう思うと、私が興味を持っているのは風のように過ぎていった平成最後の夏なんかではなくて、周りの人間にこそ興味を持っているのだと思う。素直じゃなくて困っちゃうね。何の話だよ。

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